スパーホークが
「ちょうど真夜中ごろです。マントを羽織ったほうがいいですよ。かなり冷えこんでますから」
スパーホークは立ち上がり、鎖帷子と短衣《チュニック》を着け、剣帯を腰に締めた。小袋を短衣《チュニック》の下に突っこみ、旅のマントを羽織る。
「ぐっすり眠れよ」クリクにそう声をかけると、騎士は天幕の外に足を踏み出した。
星がとても明るい夜で、切り立った山頂が連なる東の稜線からちょうど三日月が昇ったところだった。目を闇に慣らそうと、焚火の残り火のそばを離れる。冷え冷えした山の空気に白い息を吐きながら、騎士は歩哨に立った。
まだ悪夢の名残《なごり》はあったが、それも薄れつつあった。あの夢で、鮮烈な記憶として確かに覚えているのは、頬に残るアフラエルの唇の柔らかな感触だけだった。スパーホークは悪夢の思い出が宿る心の部屋の扉をきっぱりと閉ざし、別の事柄に思いを馳せた。
幼い女神はもうおらず、時の経過を変化させる能力に頼ることができなくなった今、海岸に出るのに一週間はかかるだろうと思えた。サレシア海峡を越えてデイラ国へ渡るための船も探さなくてはならない。ウォーガン王がエレネ人の王国のすべてに対して、スパーホークたちの逃亡を連絡しているのは疑いなかった。捕まらないように慎重な行動を取る必要はあるが、それでもエムサットを避けて通ることはできなかった。タレンを迎えにいくという目的もあるし、人気《ひとけ》のない海岸では船を調達するのが難しい。
北方の山岳地帯だけに、夏とはいっても夜はかなり冷えこむ。スパーホークはマントをしっかりと襟元で掻《か》き合わせた。気分は暗く、憂鬱だった。今日あった出来事は、どれもじっくり考えてみなくてはならないものばかりだ。スパーホークの信仰心はそれほど強固なものではなかった。身を捧げているのはパンディオン騎士団に対してであって、エレネ教会に対してではない。教会騎士の仕事は普通のエレネ人のために世の中を全体的に平和にして、聖職者たちが神を喜ばせると考える祭儀を行ないやすくすることだった。スパーホーク自身は、あまり神のことなど気にしない。だが今日の出来事は、相当はっきり霊的体験と言い切れるものだった。実際的な考え方をする人間というのは、今日この身に降りかかったような宗教的な体験を、本当に受け入れることなどできはしないのだ――スパーホークは悲しげにそう思った。と、両手がまるで独自の意思を持つもののように短衣《チュニック》の襟元に動きはじめた。スパーホークは決然として剣を抜き、切っ先を草原に突き立て、両手でしっかりと柄を握りしめた。宗教だの超自然だのといったことは、すべて頭から追 翻譯払う。
間もなくすべてが終わるのだ。女王がクリスタルに閉じこめられて過ごす時間も、今や何ヵ月や何週間という単位ではなく、何日という単位で数えられるようになっている。スパーホークと友人たちは、女王を癒《いや》すことのできるただ一つの品を探し求めて、イオシア大陸じゅうをめぐる長い苦しい旅を続けてきた。こうしてベーリオンを手にした今、行く手を阻むことのできるものは何もない。その必要があれば、サファイアの薔薇を使って全軍団を壊滅させることさえできるのだ。騎士ははっとして、その考えを頭から追い払った。
いかつい顔に暗い表情が浮かぶ。女王が快癒したならば、マーテルとアニアス司教をはじめ陰謀に加担したすべての者たちに、いささか恒久的な処置を講じなければならない。スパーホークは該当者の名前を心の中で数え上げはじめた。これなら夜の時間が楽しく過ごせるし、余計な事を考えて災いに巻きこまれることもない。
その六日後の夕暮れ、一行は丘の上から、サレシアの首都の煙を上げる松明《たいまつ》や、蝋燭《ろうそく》に照らされた家々の窓を見下ろしていた。
クリクがスパーホークとセフレーニアに声をかけた。
「ここで待っててください。ウォーガンはたぶんもうイオシアじゅうの街という街に、あなたがたの人相書きをばらまいてるでしょう。タレンはわたしが探してきます。船のほうも、どんなものがあるかちょっと見てきましょう」
「だいじょうぶですか」とセフレーニア。「あなたの人相書きも手配されているかもしれませんよ」
「ウォーガン王は高貴の生まれですからね。貴族ってやつは、召使ふぜいにはほとんど注意を払いませんよ」
「おまえは召使じゃない」反論する。
「世間から見れば召使ってことになるんですよ、スパーホーク。もちろんウォーガンだってそう見てます――まともにものが見えるくらいに素面《しらふ》のときにはね。旅人を待ち伏せするか何かして、服をいただくことにします。それでエムサットにもぐり込めるでしょう。賄賂《わいろ》が必要になるといけませんから、少し金を渡しといてください」
クリクが街へ向かって並足で馬を進めていってしまうと、スパーホークは教母を街道から離れた場所に引き戻した。セフレーニアはため息をついた。
「まったくエレネ人というのは。どうしてこんな不謹慎な者たちと関わりを持ってしまったのでしょうね」
ゆっくりと闇が落ち、樹脂を含んだ丈高い樅《もみ》の木々が、うっそうとした影に姿を変えた。スパーホークはファランと荷馬と、セフレーニアの白い乗用馬チエルを木につないだ。苔《こけ》むした斜面にマントを広げてセフレーニアを座らせる。
「何をくよくよしているのです、スパーホーク」
騎士は問いかけを軽く受け流そうとした。
「疲れたんでしょう。何かをやり遂げたあとには反動がくるものです」
「それだけではなさそうですが」
スパーホークはうなずいた。
「あの洞窟で起きたことに対して、心の準備ができていなかったんです。何もかもがとても親密な、個人的なことのように思えて」
セフレーニアがうなずき返した。
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